top of page
Cart
(0)

​『第9回shiseido art egg』

​「Home Bitterweet Homeカケラのイエ」

​2015 2.6-3.1

​ SHISEIDO GALLERY

家族という共同体の場であるイエは、利益社会としての現実社会からの隔離を第一の機能として成り立っている。社会とイエのこうした切断は、利益を追求する資本主義の深化がもたらす社会的歪みや、家制度の崩壊を経た核家族の出現に、おそらく起因している。

だが、実際には、イエが現実社会と完全に切断されることはない。人間は社会的存在であるから、人間にかかわることで社会と無関係に成り立つものはひとつとしてありえない。イエもひとつの社会であるが、それは自立的に成り立つものではない。家族は、たとえば日々の出勤や買い物を思い浮かべれば分かるように、外なる現実社会の生産と消費との繋がりによって成り立っているのである。

イエをこのように捉え返すとき、一見、自立的ともみえるイエの在り方は極めて擬制的なものであるということに気づく。私が「開封するイエ」シリーズで「切断」という暴力的な手法を用いたのは、こうした擬制性を明らかにするためであった。この連作は古着や古食器などの事物をパラフィンで直方体に固めたものを、家屋のかたちに切り出すことによって制作するのだが、その際、内部の事物の断面が表層にあざやかに浮き立つようにすることで、社会からの自立を演出するイエの擬制的な在り方と、切断の暴力性とを同時に明らかにしようと企てたのである。社会とみずからを切断する暴力に基づくイエの成り立ちを、ほかならぬ切断という暴力的手法によって示し、イエの否定的側面を明らかにしようとしたのだ。

ベンヤミンの概念を借りれば、これを次のように説明することができる。イエを成り立たせるものが核家族に表象される近代家族イデオロギーを踏まえる一種の「神話的暴力」であるのだとすれば、それを否定的に暴き出すもうひとつの暴力は、すべてのイデオロギーを無化する「神的暴力」なのだ、と。そして、善悪を越える聖なる暴力としての「神的暴力」の発動にこそ芸術の本質が見出せるのだと、私は考えている。

​撮影:加藤健

bottom of page